2006年夏、早実―駒大苫小牧の甲子園決勝引き分け再試合から11年。今なお語り継がれる伝説の名勝負のあと、さらなる挑戦を求め激動の人生を選んだ男がいる。死闘を演じた駒大苫小牧の「5番・右翼」鷲谷修也氏(28)が、その後の波瀾万丈の日々を述懐した。

「原動力は…何なんですかね。よくわからないです。ただ、何か新しいことにチャレンジしたいというのはずっとあって。全部が今の自分につながっています」

 あの夏、早実・斎藤佑樹の前に2試合で6打数無安打3三振。完全燃焼した鷲谷は希望していた大学の推薦に落ち、そこから単身、米国留学を決意する。

「浪人も考えたんですが、友達の姉が留学している話を聞いて。米国の大学は入り口が広くて、高校3年間野球漬けだった自分でもできるかなと思った。野球は続けるつもりだったし、評価のプラスになるかなと思って送ったビデオが向こうの監督の目に留まった」

 半年間の受験勉強を経てカリフォルニア州立デザート短大に入学。日本と米国の文化の違いに戸惑うこともあったが、それまでの野球経験がコミュニケーションに役立ったという。リーグ戦で4番を務める鷲谷の活躍はいつしかメジャースカウトの目に留まり、10球団ものメジャー球団から調査書が届くまでに。1年目は指名を断ったが、翌年、入団を決意。同期の田中将大よりも早く、米球界で一歩を踏み出した。だが、飛び込んだ世界は想像をはるかに超えていたという。

「周りは2メートル近い選手ばかり。(現ナショナルズの)ストラスバーグが隣のロッカーだったんですが、聞けば足のサイズが38センチとか。こんな世界でやるのかと。甘くはないですよね」

 ルーキーリーグではそれなりの成績を残したものの、2年目の開幕直前、球団から解雇を言い渡された。

「解雇になって心のどこかでやっと日本に帰れるという思いもあった。日本食が食べられる、コンビニでおにぎりが食えるんだなって」

 帰国後、独立リーグの石川ミリオンスターズに入団。NPB入りを目指し「やれることはすべてやった」が、その年のドラフトに漏れ、バットを置いた。その後、米国で培った英語力を生かし、上智大に入学。陸上選手に転身し、本格的に短距離の練習に励んだ。アルバイト先を通じジャマイカ政府へのツテができると、今度は単身ジャマイカに。「いきなり話しかけたらミーハーだと思われるかなと思って(笑い)。結局話しかけられなかった」というが、あのウサイン・ボルトとも練習をともにした。

 甲子園優勝、米国留学、メジャー挑戦、独立リーグ、ジャマイカ留学と類いまれな経験を積んだ男は今、車椅子ソフトボールに夢中だ。知人を介し、練習に参加すると「プレーしてる間は健常者か障害者かわからない。フラットな環境が新鮮で」と没頭。チームを立ち上げ、全国大会にも参加している。野球からも離れたわけではない。早実、駒大苫小牧のメンバーを集めた「ノンプロ88会」では草野球やボランティア活動を行い、一方で少年野球チーム「本村クラブ」でコーチを務める。

 昨年末、第1子となる長女が誕生。「今は子供のことでいっぱいいっぱいですね」と笑うが、激動の半生のなか、後悔や未練はなかったのか。

「マイナーで当時チームメートだった選手が今、どんどんメジャーに上がってる。惜しいポジションにいたんだなというのは、今になって感じますね。自分は正直、焦りすぎた。マイナーのときもケガを隠してやってたんですが、ちゃんと球団に相談するべきだった。焦らず、どっしり構えてやることも大事。これからは世の中そんなもんだろと言い聞かせて、コツコツやっていこうかなと思ってます。野球と陸上を通して学んだことは多いですしね」

 駆け足で通り過ぎた11年の歳月をそう振り返った。

 ☆わしや・なおや=1988年10月3日生まれ、北海道登別市出身。小学校3年のとき、軟式野球チーム「柏木ジュニアーズ」で野球を始める。西陵中では室蘭リトルシニアに所属、3年時に全道大会で準優勝。駒大苫小牧では2年夏に全国制覇、3年夏は全国準優勝。高校卒業後はカリフォルニア州立デザート短大に進学。2009年6月のドラフト会議でワシントン・ナショナルズに14巡目で指名され、入団。10年6月に解雇され、帰国。同年7月に独立リーグの石川ミリオンスターズ入り。11年に現役を引退した。12年に上智大に入学し、陸上競技を始める。14年、外資系投資銀行に入社。現在は車椅子ソフトボールの「上智ホイールイーグルス」、草野球チーム「ノンプロ88会」を立ち上げるなど精力的に活動を続ける。176センチ、73キロ。右投げ左打ち。